楽しい飲み会の途中でふと一人きりになりたくなって突然帰ったことがある皆さん、おはようございます。マッチョウィンプスです。
二週間ほど入浴時にお湯を使わない生活を送っている。
つまり、冷水で全身を洗い流している。
別に節約のためでも、ドMな訳でもない。
ただ、当たり前だと思っていた何かを失うという体験がしたかった。
そうなったときに自分がどう変化するのか興味があった。
実際にやってみた感想としては、「快適ではないけど3日もすりゃ慣れる」という感じ。
覚悟がいるのは最初に水を浴びる瞬間だけで、それ以降は勢いでなんとかなる。
雨の日の部活とか、雨の日に傘が無くてずぶ濡れで帰るときみたいな感じで、一度濡れてしまえばテンションが上がって乗り切れてしまうのだ。
まあ、冬だと話が違うかもしれないけど。
そう言えば、前にも同じようなことになってたね。
お湯を浴びていた頃との違いと言えば、入浴後に達成感が得られることや、「俺はぬるま湯を浴びてるフニャチン野郎とは違う。タフガイだ。」という謎の自信が得られると言った精神的なことくらいで、身体には今のところ何の変化も感じない。
ただ、お湯が出なくても生活できることが分かって、それは確固たる自信となった。
そして今日(厳密には昨日)、スーパー銭湯に行ってみた。
久々のお湯シャワー、広い湯舟、サウナ後の水風呂。
どれも以前より気持ちよく感じた。
怪我や大病を患った人たちがよく言う、「当たり前のことが当たり前に出来る=幸せ」みたいなことも、あながち間違っていないと思った。
そうなると、幸せという物は難しい。
当たり前のものにいちいち幸せを感じるほど余裕と暇がある人は少ない。
ホームレスの経験が無ければ家があるという幸福は実感出来ないし、アフリカの貧困な国にでも住んでいなければ蛇口をひねるだけできれいな水が出ることに幸せを感じることはない。
俺も疑似的ではあるがお湯を失ったからこそ、お湯が贅沢な嗜好品だと実感出来た。
俺のように、幸せとは何かみたいなことを引きこもって考えているのも、所詮は贅沢な悩みと言えるだろう。
ならば、恵まれた環境で生まれ育ち、容姿や頭脳や身体能力といった才能にまで恵まれてしまったような人は、”当たり前”の基準が高くなってしまうから日常生活で幸せを感じるハードルも高くなってしまう。
そういう意味では、恵まれた人は幸せそうに見えて実は不幸なのかもしれない。
おそらくこのブログを読んでいるような人は、多かれ少なかれ暇な時間があって、インターネットを享受出来るような恵まれた環境にいる人たちだと思う。
恵まれているのに生活に刺激が無くてつまらないと感じたら、当たり前だと思っていた物事をやめてみたり失ってみたりしては如何だろうか。
その「当たり前」が、本当に自分にとって必要かどうかを見直すきっかけになるし、もし必要でない「当たり前」を発見したとき、それに無駄な金や時間を費やさなくてよくなる。
何かを手に入れるばかりじゃなくて、何かを失うことで得られる幸せもあるかもしれないね☆