今年まだ一度もSEXをしていない皆さん、お久しぶりです。僕もです。
早すぎる季節の流れに今年も置き去りにされたマッチョウィンプスです。
みんなが元気なことを祈ります。
僕は8月にコロナに感染して増やした体重がリセットされたり、9月には原因不明のメンタルブレイクをしたり、そして友人知人が結婚だ転職だ引っ越しだと人生の次のステージへ進む様子を指を咥えて見ていたら11月になっていたり、刺激に欠けるが平和に過ごせている。
平和の代償として思考停止人間になった。
それ故このブログに書くようなこともなかった。
19〜23歳頃の僕だったら腹が立って仕方のないこともたくさん起きたはずだが、今の僕にそのアンテナはない。
そして嫌いな人がいなくなってきたのだ。
過去に書いた記事を読み返してみると、確かにあの頃は世の中のほとんどが敵に見えていたなとしみじみ感じる。
これが恐れていた「丸くなる」ってやつ?
だとしても抗うことはできない。
尖ろうと思って尖るのは14歳で引退したから。
人を嫌わなくなるとはどういうことか、おそらくは他人への関心が薄れているのだと思う。
相手のことを深く知らないから、当然好きにも嫌いにもならない。
では何故他人への関心が希薄になるのか。
原因はいくつかある。
まずは、新たに仲良くなれる人を必要としていないこと。
何かとイラついていた19〜23歳頃(以下、不本意ながら青年期と呼ぼう)と現在の違いとして、まずこれが考えられる。
青年期は他人と仲良くなれる可能性を相手にも自分にも見出そうとしていたように思う。
だから相手の嫌な部分が見えるとハズレくじを引いたような気分でムカつくし、反対に自分のが相手に受け入れられなかったら落ち込む。
めっちゃ自己中だな。
弁解させてもらうと、大学特有の「よっ友」という文化が大嫌いで、人間関係の構築において仲良く過ごすか他人として過ごすかの2パターンしか手法がなかったので、少々極端な人付き合いをしてしまったかもしれない。
このような青年期を経て、現在の僕は他人に対して仲良くなれるかもという期待をしなくなった。
青年期のように期待をしていたら疲れるというのもあるが、もう満たされていると言うのが本音に近い。
つまり、青年期までに出会えた友人が生きていて時々会えたら僕は充分幸せで、今のところ特にご新規は募集していないという状態。
歓迎も拒絶もしないというスタンスだから、自ずと他人への関心が薄れる。
次に、他人の力を必要としていないこと。
昔から、人に頼み事をするのが何故か苦手だった。
何かができないと思われるのが恥ずかしいからとか、人に迷惑をかけるのが申し訳ないとか、そんな陳腐な理由ではない。
謎なのだ。
だから、自力ではどうにもできないことは諦めて生きてきた。
おかげで何かと自己完結させてみようという姿勢が身に付いたので、"面倒なことを自分でやる"という能力は高くなったかもしれない。
いい奴キャンペーンをやっているのではない。
自己完結の根底にあるのは怠惰と妥協のみだ。
人を頼るという苦手な行為によるストレスを受けるくらいなら、潔く諦めた方が気が楽だというだけ。
そんな訳で、生活(=サバイブ)においては他人の力を必要としていないのが現状だ。
だから積極的に交友関係を広げようとか、誰かと頼み事をしあえる関係になろうという動きをしない。
結果、新しく出会う他人への興味が希薄になってしまう。
こう言うと僕が人間関係にドライな奴だと思われるかもしれないが、そうではない。(と思う)
生きていく上では一人で構わないからこそ、僕は人付き合いにおいてメリットを相手に求めずにいられる。
この人と仲良くしていれば面倒なことをやってくれる、集団の中で一軍になれる、ワガママを許してくれる、飯を奢ってくれる、セックスをさせてくれる、お小遣いをくれる。
こういう小賢しい損得勘定が上手ければ、僕の人生は大きく違っただろう。
大学では男女混合のインカレサークルに所属し、飲み会で薄ら笑いを浮かべながらバカな女が喜びそうなつまらん冗談を言って人気者になり、性体験を武勇伝と勘違いして自慢げに仲間に語り、働き始めて自分を持ち上げてくれていた仲間が減っていくことに怯え、過去の栄光とちんけなプライドを守るためテキトーな女に中出しを決めてデキ婚し、愛を見つけたとか、もう落ち着く歳だとか抜かしながら幸せな家庭を演じていたに違いない。
おっと、いつもの癖でヤリチンの人生をバッドエンドにしてしまった。
単に自分がモテないのを棚に上げて誰かをこき下ろすのは僕の良くない癖です。ごめんね。
話を戻そう。
僕は付き合う相手にメリットを求めない。(だからってデメリットをいつまでも許容できるほど器が大きい訳ではないが。)
故に人間関係の構築においては楽しいか楽しくないかの感情論100%で取捨選択を行う。
利害の上に成り立つ依存関係よりも、「理由は分からんけど俺が好きだと思ったから好き」という感情論の上に成り立つ関係の方が愛が深いし、相手が自分のことをどう思っているかなんて無駄なことも考えずに済む。
だから、社交的で人気者で要領のいい世渡り上手で、その実、一人では何もできなくて他人の力で自分が気持ちよくなることしか考えていないヤリマンメンタルのふにゃチン野郎共より、悶々として眠れぬ夜も布団を噛んで自慰に励んできた僕の方が情に厚い男に決まっているのだ。(ここまでオタク特有の早口。普段吃るくせにここでは一度も噛まず。息継ぎなし。)
そして最後、結局自分と向き合うのに精一杯だということ。
社会復帰したので青年期よりも時間的余裕がない。
その上、自己分析(笑)がまだ終わっていないのだ。
先述したように確かに思考停止人間にはなった。
自己分析というのは突き詰めていけば自己否定な訳で、精神的にかなりしんどい作業になるから最近は中断していた。
筋トレが新たな趣味に加わったおかげで、自分を見つめることから逃げられるようになった訳だが、結局筋トレも自分との戦いだ。
次回はこの重さで何回できるようにしようとか、これを食べたら調子が良いとか、どこの筋肉が弱点だとか、結局フィジカル面で自分を見つめることになる。(所詮は趣味レベルの話だが。)
そしてそれを楽しんでいる自分。
つまるところ、ベクトルを自分にしか向けられない男なのだ。
自分の殻に閉じこもったまま、自己完結できる娯楽でああでもないこうでもないと自分で盛り上がって満足しちゃってる訳だし、それを邪魔されるのも嫌だし、そんな訳で初対面の人間に関心を抱いている余裕なんてないんすわ。
ベクトルを自分の外に向けられないから恋愛感情ともご無沙汰なんだろうな。
ちなみに僕は7年程恋をしていない。
自分を守るために、自分がどんな奴なのか、どこが世間とズレているのか、自分が悪いのか世間がおかしいのか、、、みたいなことばかり考えているような次元の低い奴に、誰かを好きになるなんて高尚な真似はまだ無理だ。(黙っててもモテる武器があるなら話は別だが。)
人のためにできることはあっても、人のために生きることはまだできないね。
心のコンドーム、まだ外れてないなあ。
では、またいつか。