中学時代、学年集会のときだったと思う。
ある教師が言った。
「一生懸命はカッコイイ。」
当時中二病全盛期だった俺は、鼻で笑った。
「また教師の綺麗事かよ。かったりぃな。何事も頑張らずにサラッと出来ちゃうのが一番カッケーだろ」と。
そんな話をいちいち覚えているあたり、所詮俺は真面目な坊ちゃんだったんだなあと痛感する。
その学年集会から10年程経過した。
その後10年はよくある平凡な人生を歩んで来たが、そんな中でもあらゆるライフイベントを経た現在思うのは、「一生懸命はカッコ悪い」ということ。
考えてみてほしい。
一生懸命、すなわち全力、必死、命懸け・・・そういう瞬間にカッコイイ人間などいるだろうか?
例えば、甲子園。
9回裏ツーアウトランナー無し。最後のバッターが打った打球は無情にもセカンド正面のボテボテのゴロ。それでもバッターは一塁まで全力疾走し、ボールがファーストミッドに収まってもなおヘッドスライディング。
そんな彼に「アウトになっちゃったけど、最後のヘッドスライディングはカッコよかったよ。」と言葉を掛けるのは、果たして彼を救うことになるのだろうか。
例えば、駅伝。
区間終盤で肉離れを起こしてしまい、まともに歩くことさえ出来なくなってしまった。
それでも襷を繋ぐという気持ちで体を動かし、最後の数百mメートルは四つん這いで膝から血を流しながらも何とか次の走者に襷を繋ぐ。
そんな彼女に「結果はドベだったけど、死に物狂いで襷を繋いだ姿はカッコよかったよ。」と言葉を掛ければ、果たして彼女の心は晴れるのだろうか。
俺が本人だったら、
アウトになったらカッコ悪いし、走り切れなかったらカッコ悪い。毎打席ホームランを打てる方がカッコイイし、涼しい顔して自己ベストを出す方がカッコイイと思ってしまうだろう。
何かに一生懸命な奴らは、結果を出すことを望んでいて、そのために汚いことやダサいことや危ないこともたくさん経験する。
安全な檻の中から戦いを観ていただけの人間は、当事者に対して「カッコよかった、感動した。」などとまやかしの言葉を掛けて仲間に取り込もうとする。もしくは自分も仲間だと思い込む。
まあ、そういう連中がいるおかげでスポーツで金が動くし24時間テレビも続いてるんだけどね。
凡打時のヘッドスライディングや四つん這いでの襷リレーがカッコイイプレーなら、皆毎回そうしているでしょって話。
ロナウジーニョやベッカムだって、90分カッコイイプレーだけをしている訳ではないし、試合後はボロボロの汗だくでとてもカッコイイなんて言えたもんじゃない。
つまり、何かで結果を出そうとするとき、「カッコ悪い自分」というのが必ず付き纏う。
多くの人は才能もないのにカッコ悪い自分を我慢出来ずに挫折していく。中でも、カッコ悪い自分が嫌で挫折したと気付ける人は少ない。
所詮、俺も、これを読んでいるあなたも、圧倒的な才能の差がある相手に本気で挑んでコテンパンにやられるダサさに耐えられないだけなのだ。
あのとき教師は
一生懸命はカッコイイ、だから何かを一生懸命やってみなさい。
と伝えたかったのだろうが、「カッコイイ」がモチベーションになった所でそれは一生懸命ではない。
「お前らに才能はねえ。それでも結果を出してえ事があるなら一生懸命にならなきゃなんねえ。一生懸命はカッコ悪りい。カッコ悪りい自分になる覚悟がねえ奴ははママのおっぱいでも吸いながらシコシコ勉強してろ。」
とでも言われたら勃起してたかもね。
まあ、そんなイカれた教師はいなくて健全な中学時代でしたよっと。