散髪をした。
「お客さん、頭がかなり凝ってますねぇ。」と店主が言った。
“コリ”というのは肩や首のように、筋肉のある部位にのみ存在する概念だと思っていた僕は「頭って凝るもんなんすか?」と馬鹿な問いかけをした。
「ストレスや考え事の多い人は凝りやすいんですよ。」と店主は応えた。
学生風情の俺がストレスや考え事なんて烏滸がましいと思い、小恥ずかしくなったので慌てて話題を逸らした。
帰宅してさっき店主に言われたことを反芻する。少し嬉しくなっている自分がいた。
それは、何も考えないで生きている馬鹿で世渡りの上手さだけが取り柄(と僕が決めつけている)の奴らが嫌いだからだろう。
嫌いな人間と離れたところにいる自分というものが、「頭の凝り」によって科学的に、客観的に証明されたような気がしたのだ。
言われてみると、考え事に関しては実際に多い方だと思う。
このブログは頭や感情がオーバーヒートしそうになった時のクールダウンが目的だし、暖かい季節にはほぼ毎晩散歩に出かけては公園のベンチに腰掛けて物思いに耽っている。以前このブログでも書いたが、賢者タイムと呼ばれる約30分の間には決まって人生の反省会を開催している。
故に頭が冴えて眠れない。
もう長いこと、就寝時には適当な動画を垂れ流すか、ラジオでも聞くなどして自分との対話を強制的に遮断しないとなかなか寝付けない。
そこで、逆に「考え事」について考えてみることにした。
まず何故考え事をするのか。
一言で言えばネクラだから。考え事をしている人は、仕事や人生がうまくいっていなかったり、悩みや不安が解決できずに苦しんでいたりすることが多いと思う。
つまりネガティブな感情によって考え事という事象が発生することがほとんどだ。心がネガティブに支配されることが多いから、考え事をすることも多くなる。決して考える事が好きな訳でも、考え事をしている自分が好きな訳でもない。むしろ逆である。
次に何を考えているのか。
勿論ネガティブな事だ。僕の場合は、過去の失敗や、◯◯が嫌いでそれは何故かという事について考えることが多い。
前者について。
なぜ過去のことをいつまでもウジウジと引きずっているのかとお考えの人もいるだろう。
そういった人たちには今すぐこのブラウザを閉じ、レぺゼン地球の動画でも鑑賞することを推奨する。おそらく僕の考えは理解されないし、余計な思想を植え付けて輝かしい日常に翳りを与えてしまったら責任を負えない。
さて、なぜ過去のことを清算できないかというと、プライドの高さや自信の無さが原因と思われる。
等身大の自分と理想の自分に大きな相違がある人、そして言動が本来の実力と一致しない人は「プライドが高い」と言われる。
プライドが高いから、理想の自分であれなかった事を忘れられない。
自信がないから、それを次に繋げることができない。(次はできるという保証がないから。もっと言えば同じ瞬間というものは人生でほとんど無いから、そもそも次なんてものが存在しない)
続いて後者、嫌いという感情について。
「嫌い」には物理的なそれと心理的・論理的なそれがある。
例えばパクチーの味が嫌い。これは物理的な嫌悪である。
そして映画、音楽、人間、行動などに向けられる嫌悪には心理的・論理的な原因がある。
物理的嫌悪に関してはどうしようもないし大した問題ではない。
問題はそれ以外に向けられる嫌悪である。
思えば中学くらいからそういった類の嫌いな物事が増え、高校、大学と進むにつれ加速して行った。
一言で言えば中二病。
学校行事で熱くなって涙する奴、真面目で教師に気に入られる奴、推薦や内部進学で大学に進む奴、大学の喫煙所を占拠して誰々が何杯飲んだと豪語するサークル連中、奇抜な服や髪で浅はかなな個性をひけらかしておきながら無難に就職する奴。
僕は彼らを心の底から馬鹿にしてきた。
自分より熱くて真面目で世渡り上手な彼らを、自分より楽しく過ごしている彼らを、無理やり否定することで自分が劣等感に苛まれるのを避けてきた。
努力によって自らを変えるより、彼らを否定するほうが遙かにラクだった。
否定することで彼らより優位になった気になるし、周りとは違う観点を持ったセンスのある奴を気取ることも出来る。(勿論、否定の仕方や言い回しに多少のセンスが無いと本当に全人類から嫌われます。)
そうやって新しい事や価値観の合わない人など、色々と否定している内に世の中が敵だらけになってしまった。
結果としてそれが行動や交遊の範囲を狭めることになる。
周りに敵しかいないから、常に周囲の目線が気になって仕方ない。
表参道なんぞ歩くときには緊張とイライラで吐き気を催す。
場違いじゃないかと怯える。それは僕が他の人間をそういう目で見ているから、自分にも冷たい目線が向かっていると思い込む。
敵と同じことをしたくないから、一人で行動するか何もしないか。
敵と同じ行動を取ることは、敵の肯定、すなわち自分の否定へと繋がる。
そうして楽しいと思える瞬間がますます減っていくのだ。
ダラダラと統合失調症患者みたいな事を書いたが、何が言いたいかと言うと「嫌い」という感情は自分を守るためにうまれ、結局自分を生き辛くしているということ。
自分の弱さやプライドの高さを隠し持ったまま他者を否定する快楽の沼は、恐ろしく深い。
そこから抜け出して少しでも明るく楽しく生きるにはどうすればいいのだろうか。
おそらく、否定をやめることと、好きなことを見つけることの他にない。
例えば、タピオカドリンクの店に行列が出来ているとする。
その際
「カエルの卵飲んだぐらいでインスタか。めでてぇ奴らだな。脳みそカエルより小さいんか?」
という本音をぐっとこらえて、
「まぁ、若者にはあれが楽しいんだろうな」
と捉えることでパシャパシャとドリンク片手に写真を撮っているそこのJKは敵ではなくなる。
多分、僕は他人の行いを素直に羨ましがったり、肯定したりすることは出来ない。
それでも敵視をやめることで敵を減らし、生き辛さからの解脱を目指すことくらいは可能なはずだ。
そしてあまり金がかからず、ほどよい疲労感を与えてくれる趣味を探そうと思う。
これは大人の階段を上るとか、人として丸くなるといったことに近いのかもしれない。
今まで自分が否定してきた事をやったり、嫌いだった何かになるというのはカッコ悪いし恥ずかしいことだ。
「何をいまさらw」と、冷笑の対象になるだろう。
だが構わんのだ。
冷笑する人間の気持ちはよく分かっているつもりだ。
「お前も早くこっちに来いよ」
30歳の僕は今の僕にそう言ってくれるだろうか。
↑買え。貸してあげてもいいけど。
♪今日までそして明日から/吉田拓郎
さようなら、また次回。