自己狭間の戦い

俺は今、羽田空港国際線ターミナルにいる。

国際線と言っても目的地は福岡、つまり実家だ。

4月から住む家を決めるため、ついでに向こうにいる友人に会うために実家に帰省(寄生)するのだ。

なぜ俺が国際線ターミナルにいるのかと言うと、金をケチって早朝の便を予約したからだ。

始発電車に乗っても自宅からではフライトに間に合わないので、そして何より飛行機に乗り遅れたトラウマがあるため、空港で前泊することを決断した。

国内線ターミナルは夜を明かすには少々過酷な環境であるため、国際線ターミナルでの耐久レースに挑んだのだった。

カレーを胃に入れ、空港の綺麗なトイレで同じくカレーのような物質をぶちまけ、暇つぶしのお供にと持って来た読みかけの小説もあっという間に読み終わってしまい、もちろん旅行客や今話題のウイルスが飛び交う国際線で寝られるはずもなく、早くも万策尽きて携帯の画面にポチポチと文章を入力している次第である。

 

仕方ない、読書感想文的な事でも書くか。

 

何を隠そう、いや、恥ずかしながら、俺はさっき、生まれて初めて小説を読んで一筋の涙を零したのだ。

 

舞台 (講談社文庫)

舞台 (講談社文庫)

 

恋愛、戦争、病気、青春。お涙頂戴四天王のどれにも属さない作品だ。

いや、もしかしたら全てに当てはまるのかも。

俺は、自分自身に対して、演技をしている。自分を欺く者に、本当の姿などない。そのことだって、分かっていたはずだった。でも、やはり苦しいのは、そんな自分を、どうしようもなく嫌だと思うからだ。俺は一生、この苦しみと付き合わなければいけない。自分を欺き、演じて、そのことに嫌悪し、だが決してやめられない。俺はそうやって、一生、苦しんでゆくのだ。

きっとこのブログに辿り着かなかった健全な人たちは、この小説を読んだところで共感も感情移入もしないだろう。

 

センスがあると言われたくて - マッチョ日記

この小説には、俺の人生のテーマとも言える「生きづらさからの解脱」のヒントになるような事が何度も記されていた。

まあ気になったら読んでみてね。

 

さて、これを読んでいるあなたは「もう1人の自分」に悩まされたことはないだろうか?

言い方を変えれば、「自分を監視する自分」に。

例えば、街で犬を見かけて可愛いと思う自分がいる。

対して、犬好きである事があざとく感じて、それを悟られまいと素っ気なく振る舞う自分がいる。

さらに、自分の気持ちに正直に振る舞えない自分に腹が立つ自分。

これで良かったんだと囁く自分。

無限ループ。地獄。

自分の中に"もう1人の自分"が現れたのはいつからだろう。

俺が初めてそれをはっきり認識したのは、中学1年生の初夏、運動会の時だった。

運動会終了後、涙を流す上級生やクラスメイトを見たとき、少し羨ましいと思った。

もう1人の俺は、「うわぁ、サムい」と思った。

このとき、もう1人の俺が勝利し、俺は彼の指示通りに振る舞った。

クラスメイトが仲間と敵の2つに分類された瞬間だった。

それから俺は、もう1人の俺を衆議院議員に任命し基本的には彼の意見を採用してきた。

ある時母親が、「あんたこのままじゃ私のような捻くれ者になるよ」と言ってきた。

母親の言葉が気持ち悪くて恥ずかしくていたたまれなくなったのを覚えている。

自分で自分を捻くれていると言う時点で大して捻くれちゃいないじゃないかと思った。

こんなダサい人間にはなるまいと決意した。

母親は俺を、俺は母親を絶対に理解できないという事を、そのとき初めて理解した。

その気持ちは今でも続いていて、母親に感謝こそしているが、どこかで母親が自分の母親であることに疑問と嫌気を持っている。

とにかく、俺はこのとき、誰よりも捻くれていたいと思った。

同時に、絶対に自分が捻くれていようとしている所を他人に悟られまいと決意した。

そして勿論、そんな自分を誰よりもダサいと思った。

もう1人の自分が現れなければ、勉強やスポーツや恋愛はきっともっと上手くいっただろう。

だが彼を消さなかったのは、捻くれている自分が好きだし、彼のおかげで出来た大切な友人が何人もいるし、何より彼の存在が俺の中で大きくなりすぎたからだろう。

大学では必死に友達を作ろうとする周囲の人間がイタく思えて周りに馴染めず、学校もサボり、彼女を寝取られ、部活やサークルと言った鬱憤を発散する場所もなく、もう1人の自分に甘えてきた。

その度にそんな自分を恥じて呪った。

結局就活中ももう1人の自分を消せず、今度はもう1人の自分のせいで人生が滅茶苦茶になるような気がした。

だから俺はもう1人の自分を殺そうと頑張った。

ゴルフをしたり、蛍光色のスニーカーを買ってみたり、オナ禁してみたり、麻雀を覚えようとしてみたり、限界までサウナに入ったり。。。

どれも満足のいく結果に結びつかなかった。

やはり、キムタク(気難しいオタク)の俺には恥ずかしさ、つまり、もう1人の自分からの目が付き纏う。

そして、それに負けてしまう自分をまたしても呪った。

おそらく、何かに打ち込むことや何かを好きになることは、自己肯定や心の平穏には繋がらない。

俺は死ぬまで素直になれず、老害と揶揄され死んでいくのだと思った。

だが、この小説は、もう1人の自分と共同体になることや、素直になれない事を肯定してくれたような気がした。

そもそも、素直とか正直とかありのままとかって存在しないんだわ。

人は社会の中で常に何らかの役割を演じてる訳で、自己ってのも他人との関わりの中で形成されるものだから。

多分俺の感じてた生きづらさは、「俺はこういう人間だ」というものに拘りすぎていた事から生じたものだと今は思う。

 

これから俺の性格や思想が大きく変わることはないだろう。

そしてもう1人の自分とも死ぬまで付き合うつもりでいる。

これからは、そんな自分を許してあげたいと思う。

 

たりないふたり

たりないふたり