それでも、仕事は辞めたいよね。

男は、天井を見ている。

6畳の1K。

ベッドとテーブルとテレビ、飲みかけのペットボトルドリンクと、脱ぎっぱなしの靴下。

それだけで、6畳の空間を埋め尽くすには充分だった。

男は世間体という物を捨てた。

捨てたから、1日中天井を眺めている。

貯金が無くなれば、親の脛をかじるなり、生活保護を申請するなりして生きていけば良いのだ。

“世間体“

それこそが、人を幸せから遠ざけるしがらみであると男は悟った。

ルックス、才能、学歴、年収、衣服、車、家、墓。

人は世間体があるばかりに、これらを得、さらに死ぬまでより良い物を手にしようとする。

そのために、苦痛な労働を強いられるのだ。

男は、SNSのパトロールを始めた。

男がSNSを通じて何かを発信することはない。

男は、世間体で溢れ返ったSNSを見て冷笑することを密やかな趣味にしていた。

かつての同級生が、外車を5年ローンで購入したらしい。

くだらない。

維持費も高く壊れやすい外車を、わざわざ借金までして購入するなど笑止千万。

見栄を張ることに命かけてるのかこいつは。

男は、今日も世間体に飲み込まれた哀れな人間を見つけては、ほくそ笑んでいた。

男は、努力を知らない。

男には、大抵のことを平均点以上でこなせるくらいの才能があった。

その才能が、恵まれた環境や親の教育に対する投資の賜物であることに、男は気付いていない。

そして男は、例え努力しようとも何かで1番になれるような飛び抜けた才能を持ち合わせていないことを理解していた。

だからこそ男は、血の滲むような努力という物を経験したことがない。

世間体を取り繕うための努力など、男に理解できるはずがなかった。

無論、世間体を捨てた男にとって、その才能や努力と言った物は今や必要ではなくなった。

男は、自分が誰よりも自由だと思っていた。

そして、自由度の高さが幸福度の高さに比例すると信じていた。

法を犯さない限り、他人に文句を言われない。

自分を縛る物が無い代わりに、選択肢が日々無くなっていく事に男は気付いていない。

男は、「自由」について考え始めた。

そしてすぐに、本当の自由など存在しない事に気付いた。

世の中の多くの事象は、金か能力を一定レベル持っていないと達成出来ない。

多くの人が、それを得るために"自由な時間"
を切り売りして労働や努力という物に精を出す。

いつしかそれが、人生の第一優先事項になってしまうのだ。

しかし、男は違った。

男は"縛り"から解放されることだけを考えて生きてきた。

ではその縛りが一切無くなったとき、俺は何を目指すのか、どう行動するのか。

それこそが、本当の自由な選択だ。

無論、男にはその問いに対する答えを導くことは出来ない。

男は、自由を使いこなせる程の知力も、気力も、持ち合わせていなかった。

俺は、平均点ぐらいの人生を送るのが性に合ってるのか?

男はここで、考えるのをやめた。

この結論に達してしまうと、男が否定した世間体を肯定することになるからだ。

それでも男は気付いてしまった。

自分を特殊な存在だと思い込んでいるだけで、何も特別なことは出来ない凡人だということに。

男は跳ね起きて、部屋を飛び出した。

外は既に暗く、人通りもまばらであった。

今が何時かも、今日が何曜日かも、目覚めたのが何時かも分からなかった。

男には、それが不安で仕方なかった。

そしてこの時、人間が無意識に自分を縛る物を求めていることに気が付いた。

人間が矛盾だらけの生き物であることにも。

男は、西に向かって走った。

そうすれば、時間と逆行できる気がした。

いや、そんな事が不可能なことは分かっていた。

ただひたすらに、時の流れが怖かったのだ。

何にでもなれる気がしていたあの頃から、色々な事が出来なくなっていく現在までが、あまりに刹那的に感じた。

ズボンのポケットに小銭が入っていた。

その時、男は呼吸が乱れ喉が渇いていることに漸く気が付いた。

男は自販機でスポーツドリンクを買うと、一気に飲み干した。

うまい。

うまいと言うことは、俺は生きているということだ。


男は、「苦しみ」の価値を理解した。



帰ろう。



東の空が、少しだけ明るくなっていた。


ロングバケーション

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