まず初めに申し上げたいのが、俺はオシャレに疎いということ。
ファッションの流行に関心もなく、好きなブランドや店などは特にない。
だがファッションに全くこだわりがないかと言えばそうではない。
これが厄介。
ユニクロ等を否定する気はない。むしろお世話になる場面も多い。
だが「服は全てユニクロでいい」と割り切れるほど大人ではない。
ファッションにこれと言って興味がないくせに、服装を一種の自己表現の手段と認識している。
かと言って大金をはたいたり、業界についての知識を得る気はない。
故に服選びが大変難しい。
こうなってしまった原因はただ一つ、ファッションに対する思い込みが強すぎること。
・バスケ経験もないのにジョーダンのスニーカーは履けない、
・185cm90kgの大男でないとアンダーアーマーは着られない、
・サッカーは経験者ではあるが昨今のレトロユニフォームブームに乗っていると思われたくない(サッカーに興味もないであろう奴が古着屋で見つけたであろうベッカムのユニフォームとか着てたらちゃんと殺意湧く)、
・留学経験もないのにUCLAなどキャンパスロゴのトレーナーを着る資格はない、
・詳しくもないアーティストのバンドTシャツを着る資格はない
などなど、枚挙にいとまがない。
よって、着たい服は特にないが、着たくない(着られない)服が多い。
誰とも被らず、高すぎず、かつ俺のアイデンティティを反映しながら、少しの遊び心がある服が理想である。(雨ニモマケズみたいになっちゃった)
年に二度、今日は服を買いに行くと固く決意して家を出る日がある。
そして8月、その日は訪れた。
とはいえ、原宿だのアウトレットだのルミネだのに行く体力はもうない。
だから、その日は最寄りの繁華街である吉祥寺を練り歩いていた。
だが当然、こんな俺の限定的な需要を満たす服とは出会えず、真夏の吉祥寺散策も2時間を超え体力は限界を迎えようとしていた。
そんな俺に一筋の光が差した。
カンタベリーである。
言わずとしれたラグビーブランド。
かつてはボーダー柄のポロシャツ、それも特大サイズのものしか置いていなかったので、俺のような標準体型はお呼びでないと思っていた。
懐かしさもあって冷やかし半分で入店したが、かつてのそれとは違う姿だった。
奇をてらわず、ラグビー要素を取り入れながらも一軍の普段着として戦える(個人の感想です)アイテムが散見された。
即決でTシャツを1枚購入。
最高の形で運命の再会を果たし、入店時とは打って変わって軽い足取りで帰路についた。
そして気付いた。
ずっと羨ましかったのだ。
ジョーダンの靴が、アメフトのパーカーが、リバプールのレトロユニフォームが、ニルバーナのTシャツが、ヤンキースの帽子が、コムデギャルソンが、ラコステが、ラルフローレンが、ユニクロが。
自分がそれらを着るに値すると思えることが。
俺はラグビーをしていたし、カンタベリーをファッションとして取り入れている人間も少ない。故に、俺はこれを着るに値すると久しぶりに自信を持てた。
「どうでもいい事いちいち気にしないでカッコいいと思った服を着ればいいじゃん、誰も君のことなんて気にしてないよ。」
陽キャラはいつも正論で殴ってくるので嫌いです。
誰も気にしていないことなど百も承知。
周りの誰よりも俺が俺のことを見ている。
このもう1人の自分とは長い付き合いだ。
一時は消えてもらおうと思ったこともあったが、今では仲良くやっている。
自意識過剰な人間にとって、ファッションは自分のキャラクターに合っていないと嘘になる。高いか安いか、良いものか悪いものかだけの話ではないのだ。
先述した"着るに値する"とは、自分のキャラクターにマッチしていることを意味する。
俺にとって先述したジョーダン達は、サッカーで言えば脳筋センターバックがモレリア(ミズノ社の高級スパイク)を履くようなもので、車で言えば初心者マークが必要な期間にジャガーに乗るようなものだ。
悲しいことに、俺は服を買ったり着たりするために、逐一言い訳を考えてもう1人の自分に言い聞かせている。
ファッションが苦しくなったのはいつからだろうか。
中学生〜20歳頃までは、なけなしのお年玉やらバイト代やらを握りしめ、アウトレットやショッピングモールに出かけていたし、服を買うという行為を好意的に捉えていた。
理由は様々あるが、"背伸び感"を楽しめなくなったことが一番の要因であるように思う。
言葉を換えれば、オシャレをする、ファッションで冒険をするという行為が恥ずかしいものに変わってしまった。
それはつまり、自分の身の丈が分かってきたということだと思う。
若い頃は、少なからずこうありたい、こう見られたいという視点からも服を選んでいた。
だが、いい年をこいてしまったせいで自分の身の丈を理解してしまい、オシャレや冒険、すなわち"背伸び"=嘘という意識が芽生えた。
そして嘘を纏ってまで、自分や他人の印象を操作したいという欲求も薄くなった。
だからセルフ監査も厳しくなった。
ブランディングではなく、自己投影の手段として成立するアイテムのみ、身につけることが許されるようになった。
経済的には豊かになったはずなのに、買うことが許される物は減ってしまった。
だが悲しむことはない。
次に着る服はダサいかもしれない、似合わないかもしれない、逆に、至極凡庸なものかもしれない、それでも、俺が俺に許された本物のお気に入りを胸を張って身に纏うだけだ。