楽しくやってます

歳を重ねるごとに身だしなみに気を遣わなくなっている皆さん、こんにちは。

今回は毒にも薬にもならないことを書くので、本当に暇な人だけ読んでみてください。




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テクノロジーの話

俺はテクノロジーに疎い方だと思う。
スマートフォンも未だにiPhone6sを使っているし、機械いじりは苦手で興味もさほどないので、生活に支障がない限りはわざわざ最新式の家電やスマートウォッチやAIスピーカーの類は必要ないと思っている。
勿論、これは俺が勝手にそうしていればいいだけで、世の中が便利になっていくことは止められないし別に反対でもない。

時々、「30年後の人々の生活はこうなっている!」みたいなネット記事や専門家らしき人が力説している動画を目にする。
それらによると、
車は全て自動運転で人々が車を所有することはなくなり、言わば無人のタクシーのようなものが人や物を運ぶようになる。
調理はロボットが行い、AIが一人一人の気分や好みを分析し、いつでも手軽に美味しい料理が食べられるようになる。
AIがあなたの好きそうな映画をチョイスして、その映画をVRゴーグルを装着して観ることでいつでもダイナミックな映像を楽しめる。

などなど。

確かに、あり得るし、便利だ。

しかし、ワクワクしない自分がいる。
これでは、過程を楽しめなくなるからだ。
運転、調理、映画の選択や映画館に行くという行為は、移動、食事、映画鑑賞というゴールのための過程である。
だから人によって、もしくは気分によってはその過程が面倒なことがあるのも分かる。

自分でハンドルを握っているとき、食材を炒めたり、味付けをしたりするとき、レンタルショップで所狭しと並べられた作品を眺めるとき、何だかワクワクしてしまう俺は世の中では古い人間なのだろうか。

合理的な世の中は大歓迎だけど、非合理で儀式的な行為の中に楽しさがあるとも思う。
だからキャンプが流行ってんのかなー。

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悪いたとえ

俺はよく、悪いたとえをしてしまう。
例えば、友人と服を見に行ったとき。
スキニーのダメージジーンズを見ては「野球部の私服みたい」、ノースフェイスなどのごついダウンジャケットを見ては「アイスクライマーみたい」、襟がモコモコになっているミリタリージャケットを見ては「南極大陸みたい」、グレーと言うのが恥ずかしくて「その二つならねずみ色の方がカッコイイ」と言った感じだ。
言っておくが別に悪意はない。

少し前に、ユニクロでベージュ(!)のトレーナーを買った。
お手頃な価格で着心地もよく、何より落ち着いた色でありながら無難すぎず、こなれ感(!!)があると思い、気に入っていた。
週末に出かける際は、必ず着ているほどだ。(持っている服のレパートリーが少ないのもあるが)

今朝はミスタードーナツではなくドトールで“コーヒー片手に読書ごっこ“をしていた。勿論、こなれベージュのトレーナーを着て。
ふと自分のトレーナーに目をやったとき、「ミルク多めのカフェオレみたいだな」と思った。
その瞬間、コーヒー屋でカフェオレ色の服を着ている自分が恥ずかしくなった。
高3の秋、運動会でリレーのアンカーをやることになって張り切り、赤組だからという理由で真っ赤なランニングシューズを履いて走ったほろ苦い思い出も蘇って来て、更に嫌な気分になった。
持ち主の気持ち一つでお気に入りから脱落し、こなれベージュからカフェオレ色に格下げされたトレーナーに申し訳ない気持ちにもなった。

悪いたとえをする癖が自分の首を絞めるだけならまだいい。
だけどこの癖は女性ウケが悪すぎる。
そしてデート中なんかは、この癖を発動するスイッチがいくつもあることに気がついた。

「お、今日は髪巻いてるんだね!ソフトクリームみたいでかわいい!」
「ネイルの色変えたんだね、今度はピンクか!焼き鮭みたいで綺麗だね!」
「葉っぱに精子みたいなドレッシングかけたサラダ美味しいね!」
「ゲロ味のもんじゃ焼きと、もんじゃ焼き味のゲロならどっちがいい?」

なんて事をうっかり言ってしまわないように気をつけようと思う。

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脳筋的イキ方ノススメ

やさしくなりたいと思うようになった。
人に親切で立派な人間になりたいのではなく、人にやさしくされたいからやさしくなりたいのだ。

中3の終わり頃、音楽の教師が、やさしさとは何だと思うかとクラスの皆に問うた。
個人的にその教師のことは好きではなかった。
俺は、強さだと答えた。
こう言えば大人が喜ぶだろうと分かってそう答えた。
教師は、俺を褒めた。
日頃うんこチンコで盛り上がっている自分が大人の喜びそうなことを言い、まんまとそれで喜んだ大人に褒められたのが恥ずかしくてその教師のことを嫌いになった。
先生、ごめんね。

まあそんな事はどうでもいい。
数年後には忘れているだろうし。

やさしさが強さであるという考えは本音だったし、それは今も変わっていない。
でもそれは、元よりやさしい人間として誕生できなかった人の考えだ。
つまり、自分より弱い奴にしかやさしく出来ないという考えである。
だから、強くないとやさしくなれない。

話を整理しよう。
やさしくされたい→まずは自分がやさしくなろう→強くならないとやさしくもなれない→強くなろう(自分より弱い奴を増やそう)
というのが今の俺のささやかな目標だ。

では強くなるためにどうすべきか。
俺が思いつくお手軽な手段が二つ。

貯金と、貯筋。
金と筋肉。

まとまった金とデカい筋肉を持った自分。

「100万ぐらいならいつでも払える」
「大抵の人間は本気出せば殺せる」

この強さが周囲へのやさしさに、ひいては周囲から自分へのやさしさに。
やさしい世界でのんびり暮らそうじゃないか。

成功したミュージシャンが平和の曲歌い始めるのってこういうメカニズムなんだろうな。

ウィアーザワールド!ウィアーザファッキンチルドレン!!

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